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『たった一言「ありがとう」』

ペンネーム:くじら

 私が物心ついた時の父は怖い存在だった。何も言わなくても「感じ取れ」という雰囲気を漂わせ、母はいつも「父が何をしてほしいのか」を感じ取るのに必死……のように見えた。家族の中でも、父の機嫌を損ねないことが最重要課題であり、ホームドラマにあるような和気あいあいの家族とはほど遠く、家族一同、父が好むような静まり返った食卓を囲む毎日だった。

 ある時、母が反乱を起こした。父に対する不満を並べ立てた。すると、父は小学生の私に聞いた。「お父さんのどこがいけないの?」と。私はフッと授かった言葉を口にした。「お父さんは、お母さんが何かしてくれても『ありがとう』って言わないよね。『ありがとう』って言えば良いんだよ。」父は「そんなこと……言ってないか」と言った。

 私はそれまで、父の『ありがとう』という言葉を聞いたことがなかった。「親しき仲にも礼儀あり」である。それからの父は、子供の私から見てもガラリと変わった。何かをするたび、何かを言うたびに「ありがとう」と口にするようになった。静かだった食卓は、それはにぎやかになり、父が機嫌を損ねる回数も劇的に減っていった。父の「ありがとう」から、家族の在り方が大きく変わっていった。

 


『おいしいシール』

ペンネーム : つぐみ

 幼いころとっても食いしん坊だった息子は、私が買い物に出かけようとすると必ずといっていいほど喜んでついて来て、買い物カゴに収まっていく食材を眺めては興味津々の様子だった。

 そんなある日のこと、半額シールの貼られたお肉のパックを見つけると「ママ~、このシールってなあに?」と質問してきた。とっさのことに思わず「これはね、お・い・し・い・っていうシールなのよ!」なんて答えてしまった。それからというもの「ママ~、きょうもぼくがおいしいシールを見付けてあげるね」とすっかりその気になってしまった息子に、今更本当のことが言えなくなってしまった。『どうしよう、うそを教えたなんて、母親失格~』と落ち込んでいると、「価値あるうちに半額になった商品なら、消費者にとっては本当においしいものだよ」と夫があっさり肯定してくれた。それ以来、我が家では「おいしいシール」と呼ぶようになった。

 時は流れ、今ではすっかり大きくなった息子が、久しぶりに帰省してきた日のこと。買い物に出掛けようとする私に「母さ~ん、僕も荷物持ちに行こうか~?」と言ってついてきてくれた。一緒にお店の中を歩いていると、「おお~、懐かしのおいしいシール!自炊するようになったら、なんで母さんがこのシールのことをおいしいシールって名付けたのか分かったような気がするよ。僕も、買い物に行ったらやっぱり選んじゃうんだよなあ~、このシール!」と苦笑した。

 買い物からの帰り道、荷物を一手に引き受けてたくましく歩く彼の後ろ姿を見て、小さかったあの頃の記憶が走馬灯のように駆け巡った。

 長かった夏休みも終わり、息子が帰った後の部屋はすっきりと片付けられ、勉強机の上には小さくたたまれた手紙がちょこんと置かれていた。

「父さん、母さん、夏休み中はたいへんお世話になりました。ありがとうございました」と、丁寧な字でしたためられていた。

 心までしっかりと育ってくれていることを、感謝せずにはいられない日となった。

 


『小さい平和の作り方』

ペンネーム : 鉢かつぎ

 家は両親と僕(学生)の3人。典型的な核家族だ。休日などは一緒に家の中の空間を共有してはいるけれど、それぞれ別々に自分のやりたいことをしている。時々交わす会話は業務連絡の域を出ない。

 居間で3人が一緒になり、週明け月曜日からの予定と今日の晩ご飯の打ち合わせになった。「特にない」「なんでもいい」と、いつものやり取りで結論が出ないまま会話が途切れる。スマホを見ながら顔を上げずに生返事をすると、「ちゃんと人の話聞いて」と母の小言が飛んでくる。軽い冗談のつもりで「それってやっぱり遺伝じゃない?」と言って余計に顰蹙(ひんしゅく)を買うはめになる。さっきまで母との会話に無関心でテレビを見ていた父も巻き込まれ、にわかに三つどもえの討論会に様変わりする。ヤバい。とんだ藪蛇(やぶへび)だ。のどかな昼下がりが「聞いている」「聞いてない」「ちゃんと聞いてる」「全然聞いてない」……と、あっという間に大炎上!

 僕は「話を聞かない遺伝説」がそれなりの支持を得たところでひとまず満足し、頃合いを見計らって家族討論会の幕引きにまわった。わざとスマホに目を向けたまま「は?い、ただ今炎上中!」。リアルなつぶやきが事実上の閉幕宣言となって、程なく収束に向かった。結局、晩ごはんのメニューは決まらないまま先送りとなった。

 日頃のコミュニケーションがうまく取れていないと、一緒にいても居心地が悪く落ち着かない。相手が家族だと余計にそう感じる。そうかと思うと、バラバラな個人の集合体が何かのきっかけでつながり、急に一体化することもある。家族って、なんだか変なの。有機的でおもしろい。たまに炎上することもあるけれど、お互いに小さい努力とささやかな志を持って、身近な人と仲良く平和でいられることをいつも願っている。これでも一人っ子は、世界平和の最小単位を維持するために、結構気を使ってがんばっているんだ、一応ね。

 


『新しい家族』

ペンネーム : スイートピー

 ある日、「今度の日曜日、彼女を連れて家に帰るから」と息子から電話があった。心の中で『おーっ!彼女、ということは、もしや結婚の相手を連れてくる?!』と小躍りして喜んだ私。主人とその日を楽しみに待った。

 日曜日に、彼女を連れて息子が帰ってきた。出迎えると「〇〇さん」と息子が照れくさそうに彼女を紹介してくれた。「えっ、娘と同じ名前?」とびっくり顔の私。「そうなんです、〇〇です。よろしくお願いします」とかわいいそのお嬢さんが言う。

 『娘と同じということは、なんと呼ぼうかな?』と考えている私をよそに、息子は「彼女と芸生殿に行ってきたから」と言った。

 主人の父と母、つまり息子の祖父母の遺骨がおまつりしてある芸生殿に、いち早く彼女を連れていったことには、正直驚いた。家族に紹介する、それも我が家の大切な先祖のところにまず彼女を連れていったことに息子の決意を感じ、『ああそうなんだ、息子は自分の家族をしっかり作ろうとしているんだな』と思った。

 まだ若かった私たち家族を父と母がずーっと温かく見守ってくれたように、今、私たち夫婦はこれから息子が作る新しい家族を父母の神霊とともに見守っていく。そうして、この順繰りの見守りが温かな社会や世界に繋がっていくような気がしている。