『母の教え』 ペンネーム:陸つづき
数年前に母が亡くなったとき、親というのは死ぬ時にさえ子を教育しながら死んでいくのだ、ということを思った。 いよいよ母の死を覚悟したのは、ちょうど私の誕生日のころだった。ベッドの中の母から、プレゼントには何が欲しいかと尋ねられた。車を買うとき、私がローンを組むことを好まない母の勧めで、親からお金を借りて買ったことがあった。その返済を毎月していたので、プレゼントはその債権放棄でどうでしょうかと、冗談で言ってみた。母は真顔でそれはダメだと言ったあと、笑った。そして、じゃあお小遣いをあげようと、その場で財布から1万円札を2枚取り出して、私に手渡した。2枚というのが意外だったので、とっさに母のほっぺたにキスをして、ありがとうと言った。
次の日、出張があったので病室の母に出発の挨拶をした。すると母は、ほっぺたを指差してまたキスを催促した。これは想定外だった。もしかして、これからは病室を出る度に催促されるのだろうかと、心の中で苦笑した。 一泊二日の出張から帰り、一息ついていたところに病院から電話があり、すぐに母の元に駆けつけた。その後、日が変わって間もなく、母は静かに息を引き取った。結局、キスをしたのは2回だった。 亡くなる前に、母が私に言い残したことは何もない。遺言らしいものもなかった。しかし、物心両面で母が遺してくれたものが徐々に分かってくると、もはや直接感謝することはできないという現実が心にこたえた。母のみたまに感謝しつつ、自分の周囲の人たちが生きている間に、あと何回「ありがとう」を言えるだろうか、と考えるようにしている。 |