『12歳の岐路』 ペンネーム:piano 私は石川県の能登で漆器を扱う家の4人兄弟の末っ子に生まれました。小学校6年生のある日、 ところが、祖父は「中学からそんな遠い所へ行くことはないだろう」と言い、父は「大阪に行かなくても勉強はできる」と言い、学園に行くことになかなか賛成してくれません。 父、母、祖父、それぞれに形は違うけれど、根底には、私を思う深い優しさがあったことを、その時の私はどこまで感じていたでしょうか。ただ、「きっと自分にプラスにするから行かせてほしい」という私の願いは、徐々に伝わっていたのだと思います。 80歳を過ぎた祖父の具合が悪くなってきたころ、父が願書を出すことを許してくれました。締め切りの4日前でした。急いで準備をして提出した翌日に、祖父は安らかに息を引き取りました。 結局その後、PL学園の中学から高校、短大で学び、そのまま聖地で結婚しました。3人の娘を授かり、やがて2人の孫たちの祖母となり、幸せな日々を送っています。思えば、わが子が幼かったころに比べ、帰省することも減りましたが、心はずっと能登を離れたことがありません。私を膝に乗せてよく昔話をしてくれた祖父、口数は少ないけれど、揺るがない確かな愛情でいつも私を包んで育ててくれた父母の、懐かしい優しさを今あらためて思います。 |
子を思う親の心、親を思う子の心は、時がたっても変わらない能登の漆器のもつ柔らかな光沢と、少し似ているような気がします。 |